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年表−1954〜1978年−

年号 THE ALFEEの出来事 他アーティストへの提供作品など
1954年 
04月15日 坂崎幸之助(本名・幸二)、東京都墨田区に生まれる。  
04月17日 高見沢俊彦、埼玉県蕨市に生まれる。  
1955年 
01月20日 桜井賢、埼玉県秩父郡荒川村(現・秩父市)に生まれる。  
1956〜1969年 
(特筆事項なし)
間にあった主な出来事:ザ・スパイダースがデビュー(1965年)、ザ・ビートルズ来日(1966年)、アマチュアの吉田拓郎が「和製ボブ・ディラン」として有名に(1966年頃)、六文銭結成(1968年)、「イムジン河」発売中止(1968年)、GSブーム(1960年代後半)など
 
1970年 
04月 桜井・高見沢、私立明治学院高校入学
坂崎、都立墨田川高校入学
在学中、桜井、同級生とフォークグループ結成、サイモン&ガーファンクル等の外国のフォークグループのコピーを演奏し、人気を集める。
高見沢、同級生とロックバンド結成、レッド・ツェッペリン等ハードロックのコピーを演奏する。
一方坂崎は一人で、吉田拓郎など日本のフォークのコピーを得意としていた。
 
1971年 
(特筆事項なし)  
1972年 
04月上旬 銀座・山野楽器で行われたフォークコンテストに、坂崎は弾き語りで、桜井は所属するコンフィデンスの一員として出場。出会う。
ちなみにこの時、コンフィデンスはS&Gの「ボクサー」とオリジナルの「風の唄」を演奏し、優勝。
 
08月 コンフィデンス、オリジナルの「風の唄」で文化放送主催のコンテストの決勝まで進む。
その決勝前日にメンバーの一人と坂崎が偶然山野楽器で出会ったことをきっかけに、坂崎、コンフィデンスに突然加入。
コンテストは3位入賞。この時、審査員の一人として来場していた小室等に、映画「愛こんにちは」サントラアルバム参加へを打診される。
 
09月 コンフィデンス、初のレコーディング。  
11月 桜井・坂崎を含めて4人組だったコンフィデンスは一人が受験・進学に伴い、文化祭を最後に脱退することに。
坂崎は、桜井ともう一人が進学する明治学院大学を受験することにする。
一方、高見沢のロックバンドも明治学院大学に進学するのは彼だけということで、こちらも受験に伴い解散することになった。
 
12月 コンフィデンスのシングル「昼下りの夢」、東宝レコードより発売。  
1973年 
02月 コンフィデンスのアルバム「小室等の作曲でおくるスクリーン・フォーク・アルバム 東宝映画「愛こんにちは」オリジナル・サウンド・トラック盤」、東宝レコードより発売。  
04月 桜井、坂崎、高見沢、私立明治学院大学に進学。
コンフィデンスには再び東宝レコードから映画音楽を制作しないかという話が来、休眠状態にあった活動を再開。
この頃、坂崎、高見沢と出会い、意気投合。
そのままサポートメンバーとして高見沢、コンフィデンスに加入。
 
11月 四人囃子のアルバム「二十歳の原点」、東宝レコードより発売。
このアルバムの中に「作詞・コンフィデンス」として、高見沢の作詞した「夜」が収録される。
「夜」
(詞のみ。四人囃子)
「煙草」
(詞のみ。四人囃子)
※「煙草」はこの時にはLPに収録されず、後にCD化された際に初収録となった。
1974年 
01月 コンフィデンス、田辺エージェンシーのオーディションを受ける。  
06月 コンフィデンス、田辺エージェンシーと契約。レコード会社はビクターに決定。
ただ、グループ名を変えろと言われる。
業界紙に「オリジナル・コンフィデンス」というのがあるので、このままではマズイということである。
 
07月 グループ名「アルフィー(ALFIE)」に決定。
本人達は「シド」というネーミングで行こうと決めた矢先のプロデューサー決定だった。
レコーディングも開始。ボーカルは、それまでコーラス担当だった高見沢。
こうしてアイドルグループ・アルフィーは着々とデビューの準備を整えていった。
 
08月25日 ALFIEデビューシングル「夏しぐれ」発売。作詞・松本隆、作曲・筒見京平。
B面は桜井ボーカルの「危険なリンゴ」
 
TBSテレビ「ギンザNOW」のレギュラーに。あちこちのラジオにも出演。キャンペーンで忙しい日々を過ごす。  
1975年 
05月25日 2枚目のシングル「青春の記憶」発売。ボーカルは坂崎。
B面は「真夏の夢」
 
08月05日 初めてのアルバム「青春の記憶」発売。
殆どの曲が他人の手による作品の中、当時のもう一人のメンバー作詞・坂崎作曲の「一年目の春」、高見沢作詞作曲の「ロマンス・レイン」「卒業」だけは彼らの手によるものだった。
 
コンフィデンス設立当初からいたメンバーの一人が諸事情により脱退。アルフィーは3人になった。
この頃、アルフィーに専属のマネージャーがつくようになる。ガロのマネージャーも務めた事のあるこの人は、後に、現在の事務所・Project-IIIの社長になる関口登氏である。
 
12月上旬 かまやつひろしのツアーにバッグバンドとして参加。途中、自分達の曲を演奏する機会にも恵まれる。  
12月09日 3枚目のシングルとして用意していた「府中捕物控」、発売前日に急遽発売中止に。
その日時効を迎える3億円事件をパロディソングに仕立てた歌詞が、ビクターの「社の良識に合わない」ということだった。
 
12月中旬 アルフィー、「府中捕物控」の一方的な発売中止をきっかけに、ビクターとの契約を打ち切り、ひたすらオリジナル曲を作り、ライヴハウスで演奏する活動に入る。  
1976年 
01月下旬 再び、かまやつひろしのバックバンドで各地をまわる。  
03月 今度は研ナオコのバックバンドで各地をまわる。
これ以降、かまやつ・研のバックバンドと自分達のライヴハウス演奏をするという生活を続ける。
 
08月29日 元ガロの堀内護(マーク)が作ったグループ「バースデー」とのジョイントライブ「アドベンチャー ラウンド1」が日本青年館大ホールで開かれる。
アルフィーにとっては初めての大会場でのライヴになった。
 
1977年 
(時期不明) この年は、研ナオコ、大野真澄などのバックバンドと自分達のライヴ、デモテープ作成の日々だった模様。  
1978年 
ライヴハウスが満杯になるようになったアルフィーに、レコード会社7社から再デビューの誘いが来るようになった。
その中で、彼らはキャニオンレコード(現・PONY CANYON)を選択。再デビューが決まる。